読み解く力

「読み解く力」は難しい

これが、最近特に

思うコト。

「ん?そんなに簡単に

できるって思ってた?」

ははは… (^-^;

そうだよね。

「できたっ!」

って思っていても、

それはその瞬間のことで、

次の瞬間には

「できていない…」

って思うコトもよくある。

でも、それもまた

その瞬間のこと。

人はそうして、

成功と失敗を繰り返し、

成長していく。

いくつになっても、

生きているかぎりは。

そうなぐさめながら、

向き合っていこう!

あらためてそう思う。

いつも思うコトだけど、

そう思っているときは、

そう思っているコトに

不思議と近づく。

天はまたしても、

絶妙のタイミングで

ヒントを与えてくれた。

「明治までの

国語教育の基本は

「四書五経の素読」

である。

素読というのは

「ひたすら漢文を音読

する」だけである。

意味なんかどうだって

いいのである。

古人は経験的に、

この作業を

経由しなければ

「言語の意味」を

解するという

次のレベルには

あがれないことを熟知

していたのである。」

(@内田樹)

折しも、Amazonが

電子書籍リーダーの

「キンドル(Kindle)」

を発売し、

Kindle対応の電子書籍を

パソコンで読める

アプリケーションを

リリースしたという

ニュースが。

自分は基本的に、

紙ベースの本が

好きだけれど、

電子書籍は否定しない。

むしろ肯定的かも。

実際、本を読む以外に、

ブログ記事を読んで、

情報を得ている

わけなのだから。

否定する根拠なんてない。

問題は、媒体が

紙か電子かではなく、

何を読むか。

「読み解く力」

を養うには、まず

何を「見る」かが

大切なのだと思う。

「読み解く力」

を養うためには、

どんな文字情報を

視覚的に捉えるか。

いわゆる「素読」する

ものを何にするか。

自分はまだまだ

「素読」が足りて

いないのだと思う。

いわんや

「読み解く力」をや。

あらためて

そう感じた昨日。

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隣人を愛するように

いつもコメント頂く

suwanaganoさん。

先日のブログ記事

「しがみつかない生き方」

へ頂いたコメントに

こんな返信コメントを。

「隣人を愛するように、

自分を愛する」

これは、

内田樹さんのブログ

『内田樹の研究室』

から採録したものです。

最近、

煩をいとわず、

自身の心身をも酷使して

ひたむきに生きる人の

お話を伺う機会が多く、

心に残っていた言葉を

引っ張り出して

来たのでした。

今あらためて、

自分自身を含めた

「人を愛する」

ということについて、

内田樹さんのブログ記事を

採録しながら考えたいと

思います。

「自分を愛するように

あなたの隣人を

愛しなさい」という聖句を

ふつう私たちは

「自分を愛することは

容易であるが、

隣人を愛することは

困難である」と解する。

私たちは

「自分を愛する仕方」

は熟知しているが、

「隣人を愛する仕方」

はよく知らないと

考えている。

だが、それは

ほんとうだろうか。

私たちは

自分を愛する仕方を

熟知していると

言えるであろうか。

例えば、

私たちの国では

年間3万人を越える

人々が自殺をしている。

彼らは

「自分を愛している」

と言えるだろうか。

家族の愛や友人から

信頼を失って、

「こんな私に

生きている価値はない」

と判断して自殺する

人がいたとする。

その人の場合、

「こんな私に

生きる価値はない」

と判断した「私」と

その「私」によって死刑

を宣告された「私」の

二つの「私」のどちらが

「ほんとうの私」

なのであろう。

それほど極端な例を

とらなくても、

「自己卑下」や

「自己嫌悪」は

私たちにとって

日常茶飯事である。

そもそも向上心

というもの自体が

「今の私では

満足できない」、

「私自身を

うまく愛せない」

という事実から推力を

得ているとは言えまいか。

(中略)

私たちの

生きている時代は

「自分を愛すること」

がきわめて

困難な時代である。

自分を愛することが

できない人間が

「自分を愛するように

隣人を愛する」ことが

できるであろうか。

私は懐疑的である。

(中略)

それは「愛己」が

誰にでもできるほど

容易なわざで

あるからではなく、

その語の根源的な

意味において

「自分自身を

愛している人間」が

この世界に存在しない

ことを古代の賢者は

すでに察知していた

からではないかと

私は考えるのである。

(中略)

「人を愛すること」

自体はそれほど

むずかしいことではない。

けれども

愛し続けることは

むずかしい。

四六時中いっしょにいて、

その欠点をぜんぶ

見せつけられて、

それでも

愛し続けることは

きわめてむずかしい。

けれども、

努力によって、

それも可能である。

そのように

人を愛することが、

「だいたい10人中7人

くらいについてはできる」

ようになったら、

その人は

「自分を愛する」境位に

近づいたと申し上げて

よろしいであろう。」

(@内田樹

「あなたの隣人を愛する

ように、あなた自身を

愛しなさい」)

「自分を愛する」

ということは、

実はとても難しい。

「自分を愛する」

ということは、

自己中心的な「自己愛」

いわゆるナルシスト

のことではない。

「隣人を愛するように

自分を愛する」

これはすなわち、

「耐えること」

でもあり、

「許すこと」

でもあるのだろう。

「耐える」からこそ

隣人を受け入れ、

その隣人を受け入れた

自分を受け入れる

ことができる。

「許す」からこそ、

隣人に委ね、

その隣人に委ねた

自分を「許す」

ことができる。

そうした「折り合い」

をつけることを、

「愛する」

というのだろう。

きっと。

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