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2010年9月

お誕生日おめでとう!

お誕生日おめでとう


今日は、

この世に生まれてきた

よろこびを一緒に

心から祝福する日。


時には辛いことも

あるかもしれないけれど、

よろこびを分かち合う

素晴らしい想いで

満たされてる。


素敵なよろこびに

包まれて、

この1年も

ますます素敵な

時間でありますように。


Happy Happy Birthday

to You!!

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大切なのは好きか嫌いか、もっと大切なのは…

ようやく、

初秋らしい日和に

なってきたと思う

今日この頃。

(o^-^o)


ブログに触れて頂いた

みなさまはお元気ですか?

(゚▽゚*)


自分は…

(^-^;

喉が痛いです

(゚ー゚;


ところで、

秋は何をするにも

とっても良い季節ですね。

(*゚▽゚)ノ


そんな秋を何倍も

楽しむ秘訣。

秋だけじゃなく、

人生を豊かに

何倍も楽しむ秘訣。

それは…

(* ̄ー ̄*)


「好き」か「嫌い」か。

( ̄▽ ̄)


「な〜んだぁ、そんなこと」

(≧m≦)


そうなんです!

そんなことなんです。

(≧∇≦)


でも、

好きか嫌いかを見極める

こと、それは単なる

きっかけに過ぎません。

楽しむ秘訣はその先に。

もっと大切なことが…


「好き」なものは、

ホンのすこしのきっかけで

「より好き」、

「もっと好き」、

「大好き!」

になる。

それは簡単なこと。


もっと大切なのは、

「嫌い」なものに

対する対処。

「嫌い」なものから

いかにして学ぶか。


「嫌い」だから

耳を傾けない。

あるいは無視をする。

それは、「好き」な

ものが「より好き」

になるくらい簡単なこと。


「嫌い」なものを

「嫌い」なように

振る舞うのは、

素直といえば

とても素直なこと。


でも、

それは成熟した「大人」

じゃない。

自分が「嫌い」な人に、

相手が何かしたワケじゃ

ないのに、

「私はあなたが嫌いです」

という人はそもそも

「大人」とは言えない。


じゃあ、

成熟した「大人」は

どう振る舞うのか?


「私が危機論者を

好かないのは、

彼らが危機の到来の

ときに『逃げる』

ことを経験的に

知っているからである。


『ほら、オレが

言ったとおりに

なっただろう』と

言うのは、彼らが

安全な場所へ

立ち去るときの

『別れ際』の台詞

なのである。


共同体のフルメンバー

である『大人』は

そういうことをしない。

危機の到来について

警鐘を鳴らしたのが、

誰もそれに耳を

傾けなかった。

そうこうするうちに、

ついに危機が到来した。


そういう場合でも、

その破局的な現場に

踏みとどまって、

『彼の意見を聴かなかった

人々』と、不幸と危険を

クールにわかちあう

のが『大人』である。」

(@内田樹)


「嫌い」なものから

「逃げる」のではなく、

「嫌い」なものから

「逃げない」のが

「大人」の振る舞い

なのだと強く思う。


ただ、

「嫌い」なものから

「逃げず」に、向き合う

としても、「嫌い」な

ものを「好き」になる

ように努力する必要は、

ない!全くない!!

(「嫌い」なものが

「好き」になることは

あるとしても…)


「嫌い」なものから

「逃げず」に向き合って、

学ぶことが大切なこと。

「好き」なことから

学ぶことよりも

「嫌い」なことから

学ぶことの方が、

とても有益なことが

実は多い。


それが、

この秋ならずとも

人生を豊かに

過ごす秘訣なのだと

思います。

(v^ー゜)


ブログに触れて頂いた

みなさまにとって

この連休が素敵な時間

でありますように。

o(*^▽^*)o

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小さな親切、大きな有難う

どんな小さな親切も、

とても有り難いもの。

ちょっとした気遣いや

心遣いも同じ。

親切を施されると、

おもわずほころぶような

笑顔になって、

感謝の思いが満ちてくる。


気遣いする側に

まわってみれば、すぐに

わかるコトだけれど、

ちょっとした気遣い

であっても、相手の

よろこぶ顔に癒される。


でもね、

ちょっとしたという

ところが、実は難しい。


ちょっとしたことや、

ささいなことだと、

「こんなことは…」

と気遣いせずに、

やりすごしてしまうことも。


ちょっとした気遣いが、

何かを生み出すエネルギー

になるかもしれないのにね。


怒りや憎しみの連鎖は

何も生み出さないけれど、

有難うや感謝の連鎖は

大きなよろこびを

生み出すに違いない。


だから、

ちょっとした気遣いを

施されることは、

やっぱり有り難い。

(o^-^o)


小さな親切であっても、

大きな親切であっても、

心は同じく、

大きな有難う!を。

(゚▽゚*)


常に気遣いを示す側で

ありたいと思うし、

ちょっとした気遣いに

感謝の気持ちを

お返しする側でも

ありたいと思う。

o(*^▽^*)o

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「ちから」

昨年の真夏、

街中で聞いた

leccaの「紅空」。


この曲を聞いて

心が強く動いたこと

をよく覚えている。

(o^-^o)

「紅空」


朝晩がずいぶん涼しく

感じるようになった

けれど、日中は暑さ

を感じる今日この頃、

leccaの「ちから」

を聴いた。


♪きみがずっと

きみのことを笑わせてく

世界で一人の力を

持ってるから

坂で止まり 壁に当たり

それで終わり?

そんなのイヤだって

いつでも叫んでゆく


とは言っても誰だって

自分にできるのか

不安があって

おそらくこんなんじゃ

ダメだって

落ち込みモードが

はじまって

考えてるその時間に

何でもやってみりゃ

いいのに

またまた現実逃避、

えんえんとなかなか

抜け出せなくなるの


ダメな自分でいいさ

昨日より良く変えてこう

キライなトコ見えるなら

残らず直してこう

やるだけやれた?

気持ち良かった?

でもまだあるね?

それなら一緒にいこう


今しか見えないもの

ふたをして通り過ぎないで

しがみつくほどの

毎日でもないのに

なかなか動けなくて

動けること忘れてる

決められてるみたいに

知り尽くした

顔したくない♪

(Lyrics by lecca)


落ち込んでいる時、

人は自分のすべてが

ダメだと思ってしまう。

ダメなところが目立って、

自分のイイところが

見えなくなってるから。


ダメな自分を引き受ける。

言い訳をせず、ただただ

素直に引き受ける。

そして、

前を向いて歩いていく。

それでイイんだと思う。


決してすべてダメな

ワケじゃないのに、

ダメだと思っている時も、

ただただ前を向いて

進んでいく。


自分には前を向いて

歩いて行く「ちから」が

あることに気づかないまま

に歩いて行く。


それでイイんだと思う。

「ちから」があると

わかっているから

前に進めるのではなく、

前に進んでいるうちに

自分には「ちから」が

あるんだと気づく。


何をしてイイか

わからないからと

立ち止まらず、

何かをやってみる。

進んでいってはじめて、

そんな「ちから」が

あったんだと

事後的に気づく。


あなたには

そんな「ちから」が

必ずある!

o(*^▽^*)o


そして、

その先には、

あなたがやって来るのを

待っている人が

いるのだから。

気づいてないかも

しれないけれど。


あなたの「ちから」は

あなたを待つ人の

「ちから」にも

なるのだから。

(*^-^*)

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かけがえのないものだから

朝はようやく涼しく

感じるようになってきた。

(o^-^o)


内田樹さんのブログ記事を

読んでいて、あらためて

「かけがえのないもの」

について思う。


「私が『生身』という

言葉で言おうとしたのは、

『手で触れることができる』

ということである。

『可傷的な身体』

と言ってもいい。


共同体をともに

構成する人々と

『現に触れ合っている』

という原事実の上にしか、

『法の制定』という

ような超法規的行動は

基礎づけられない。


可傷的な身体を担保に

差し出すことなしに

『法の制定』は

なしえない。


それは可傷的な身体、

生身の身体は

『かけがえがない』

からである。


人は『いくらでも

代わりがあるもの』

については

粗雑な扱いをする。

『かけがえのないもの』

については、

それが傷つけられない

ように、丁寧に扱う。

政治的意見について

も同じである。


『世論』や『定型的

オピニオン』をただ

模倣しているだけの人

にとって、その政治的

意見は『かけがえの

ないもの』ではない。


彼が黙って口を噤んでも、

誰かが同じことを

代わって言ってくれる

はずだからである。


あるいは彼に言責が

求められても

『私が言ったんじゃ

ありません』と他人に

責任を転嫁することが

できるからである。

そのような言葉は

粗雑に扱われる。


(中略)


自分の固有名を付した

意見をもつものだけが、

情理を尽くして語る。

それは彼が語るのを

止めたら誰も彼に

代わって語ってくれない

言葉だからだ。


人々が耳を塞いで

しまったら、もう

二度と誰にも

聞き届けられる

チャンスのない

言葉だからだ。」

(@内田樹

「法の制定について」)


「かけがえのないもの」

それは、余人をもって

代え難いもの。

その代わりのないもの。


だから、

「誰かの代わりに」という

もの自体が存在しない。

逆に、代わりになるような

ものだと粗雑に扱って

しまうことになる。

だって、それを失っても

その代わりはあるのだから。


「かけがえのないもの」

それは、時間をかけて

強く意識づけられる

ものでもある。


「きみのバラを

かけがえのないもの

にしたのは、

きみが、

バラのために

費やした時間

だったんだ。


人間たちは、

こういう真理を

忘れてしまった。


でも、きみは

忘れちゃいけない。

きみは、

なつかせたもの、

絆を結んだものには、

永遠に責任を持つんだ。

きみは、

きみのバラに、

責任がある…」

(サン=テグジュペリ

『星の王子さま』)


「かけがえのないもの」

それは、時間を費やして

「かけがえのないもの」

となり、そう感じた瞬間

その存在のために

費やされた時間までも

大切なものとなる。


だって、

その存在がなければ、

そのために費やされる

時間も存在しなかった

のだから。


そして、

その代わりになるものは

存在しないのだから。


「かけがえのないもの」

それは、あなたです。

あなたの代わりは

誰もいませんよ。

o(*^▽^*)o

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歴史から未来を読む

遅い夏休みの1日。

とはいっても、

今年ばかりは

9月中旬になっても

「夏休み」と言って

憚らないような気候が

続いているけれど。

(^-^;


以前から読もうと

思っていた1冊の本を

読了した。それは…


東大の歴史学の教授

である加藤陽子さんが

中高校生に、日本近現代史

のなかでも、「戦争」を

テーマに通覧した

講義内容をまとめた

『それでも、日本人は

「戦争」を選んだ』

(加藤陽子 朝日出版社)


とても読みやすく、

とても興味深い。

あっという間に読了。

どうして、もっと早く

読まなかったのだろう…


ところで、朝日出版社は

自分にとってのヒットを

連発している。

1つは上記の本であり、

もう1つは、池谷裕二さんの

『単純な脳、複雑な「私」』


いずれも、東大の教授

あるいは准教授が、

中高校生あるいは高校生

を相手に、それぞれの

専門領域を講義した内容

についてまとめた本。


わかりやすさと

おもしろさについては、

秀でていて、

自分が高校生の時に

読みたかったと、

この2冊の本に触れて

つくづく思った。


おっとぉ!

脇道に逸れてしまった…

閑話休題。


さて、

加藤陽子さんの

『それでも、日本人は

「戦争」を選んだ』


この本の中で加藤さんは、

日本が太平洋戦争において

徹底的に負けるに至った

事実を知る私たちに、

その愚かさを列挙

して終わるのではなく、

次のように述べている。


「天皇を含めて

当時の内閣や軍の指導部

の責任を問いたいと思う

姿勢と、自分が当時

生きていたとしたら、

助成金ほしさに分村移民を

送りだそうと動くような

県の役人、あるいは村長、

あるいは村人の側に

まわっていたのではないか

と想像してみる姿勢、

この二つの姿勢をともに

持ち続けること、

これがいちばん大切な

ことだと思います」

(@加藤陽子)


これこそまさに、

私たちが歴史を

学ぶ姿勢なのでしょう。


この本に対して、

内田樹さんは

2009年10月19日号の

『プレジデント』誌に

次のような書評を

寄稿しています。

その一部をここに

採録します。


「著者が生徒たちの前に

差し出すのは、『知識』

ではなく、ましてや

『史観』でもない。

もっとずっと生々しいもの、

すなわち『史料』である。


個人の書簡、報告書、

日記、地図、統計数値、

そういうものがごろりと

生徒たちの前に投げ

出される。生徒たちは

それが何を意味するのか

について推論すること

を求められる。


事後的にはどれほど

愚かしく邪悪なものと

思えるような歴史的

選択も、リアルタイム

での主観からは合理的で

倫理的なものとして

映現することがある。


私は経験からそれを

学んだが、著者もこの点

についてはたぶん私と

同意見だろうと思う。

どのような理不尽と

見えるふるまいにも

主観的には合理性がある。


「あとぢえ」で、

すでに起きてしまったこと

の理非について判定する

ことはたやすい。

むずかしいのは

未来がどうなるか

わからない時点で、

何が起きるかを適切に

推理することである。


(中略)


歴史的知性とは、

歴史的事実の堆積から

『鉄の法則性』を

引き出す知性の

ことではなく、

未来がまだわからない

時点においてなお

蓋然性の高い推理が

できる知性の働き

のことであるという

著者の信念に私は

深く共感するのである。」

(@内田樹)


「昔はこうだった」

「あの時はこうだった」

ということを知っている

ということだけが

歴史的「知性」ではない。

ましてや、

「こうだった」から、

「そうする」というのも

高度な「知性」とは

言えないだろう、きっと。

(人はそれを「思い込み」

と言うに違いない…)


過去の事実を知ること

だけが歴史なのではなく、

自分もそうありえたかも

しれない選択について

考えてみることこそ、

歴史を学ぶ姿勢であり、

どうすればよいか

わからない時に、

どう考えればよいかに

ついて知っていることが

未来を創造するための

「知性」なのだろうと

あらためて思った

「夏の1日」だった。

(* ̄ー ̄*)

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