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2010年10月

声を聴くこと

内田樹さんのTwitterに

とても気になる記事が

書かれていた。


そして偶然にも

昨日(10月28日)のブログに

「ロングバージョン」として

掲載されていた。


それは、

『声を聴くことについて』


その一部を採録します。


「神の召命は微かな波動

として、まわりの誰にも

聞こえない、私だけが

聞き届けることのできる

シグナルとして

私たちに触れる。


だから、

それに注意を傾けなさい。

深く息をして、

眼を閉じて、

心を静めて、

『存在しないもの』からの

メッセージを聴きなさい。


これは服喪儀礼と

同じものである。


どの社会集団でも、

近親者には服喪儀礼として

歌舞音曲を控え、

他出や社交を控え、

美味を飽食し

泥酔することを

控えよと命じている。


これは『家の中に

重病人がいるとき』の

心遣いと同じものである。


壁越しに、

病人のわずかな咳払いや、

うめき声が聞こえたときに、

その微かなシグナルを

聞き逃さないように、

私たちは病室の近くに

じっとして、大きな声を

上げることを控え、

センサーの感度を高く

保つように工夫をする。


死者をあたかも家内の

重病人のように扱うこと。

それが服喪儀礼である。


死者はもう存在しない。

けれども、

死者は『存在するとは

別の仕方で』

生きる者たちに

『触れる』


『死者が私のこの

ふるまいを見たら、

どう思うだろう』

という問いが

ことあるごとに回帰して、

そこにいない死者の判断を

おのれの行動の規矩と

する人にとって、死者は

『存在しないという

仕方で存在する』。


それどころかしばしば

死者は『生きているとき

よりもさらに生きている』。


死者をそのように

遇すること、

それが服喪儀礼である。


この『存在しないもの、

遠来のものからの声に

耳を傾けることができる』

能力が人間の人間性を

基礎づけている。


『論語』の陽貨篇には

『服喪三年』についての

宰予と孔子の対話が

録されている。


弟子の宰予が孔子に

服喪期間が長すぎる

ことに不満を言った。

『三年の服喪期間と

いうのは長すぎませんか。

そんなに公務を休んで

いたのでは、社会制度は

維持できません。』


孔子は『じゃあ、

好きにしなさい』と

宰予を帰してから、

かたわらの弟子に

こう言った。

『予の不仁なるや。

子生まれて三年、然る後に

父母の懐を免がる。

夫れ三年の喪は

天下の通喪なり。

予や三年の愛其の

父母に有るか。』


あいつも薄情なやつだね。

子どもというのは

生まれてから三年は

父母に扶養されて育つ。

それからようやく親の手を

離れて生き始める。


だから服喪三年ということ

になっているのだ。

あの男は父母に対してその

三年分の愛を惜しむのか。


子どもの養育と服喪が

『対』になっている

という発想はまことに

孔子の洞見である。


赤ちゃんのとき、

私たちは親が自分に

何を語りかけているのか、

自分に何を求めているのか、

さっぱりわからない。


でも、その意味の

わからない言葉が

しだいに分節言語として

理解されてくるころに、

親による24時間ケア体制

から離脱して、

一人で遊び始める。


『父母からの、

聞こえなかった言葉が

しだいに聞こえるように

なる』というのが

子どもの成長過程である。

服喪儀礼はその逆の

行程を進む。


『聞こえていた言葉が

しだいにか細くなって

ゆき、やがて聞こえ

なくなる』まで耳を

澄まし続けるという

のが服喪儀礼である。


子どもが父母の声を

聴き取るまでに

3年かかったなら、

父母の声が聞こえなく

なるまで3年かける

というのは理に

かなっている。


人間の世界はそのように

『いまだ到来しないもの』

と『すでに立ち去った

もの』の間の中空に

構築されている。


服喪儀礼とは、

死者に対して礼を尽くす

ことが目的ではない。


死者に対して礼を尽くす

ことを通じて、

『存在しないもの』と

かかわる術を学び、

人間性を基礎づける

ことが目的なのである。」

(@内田樹)


自分にとっては、

なんて絶妙なタイミング

なんだろう…

自分が伝えたいコト、

自分が為すべきコト、

それらをあらためて

わかりやすい言葉で

伝えて頂いたような…


まさしく、

服喪儀礼とは

葬儀や法要に出て、

霊前に頭を垂れる

ことばかりを

言うのではない!


かといって、

葬儀や法要はカタチ

ばかりのモノだからと

侮っていいワケはない。

カタチすらも全うに

受け容れるコトが

できない人に何が

できるのだろう…


さらに、

カタチだけで満足

すればよいという

ワケでもない。


大切なのは、

「声を聴くこと」

生きている人の

声を聴くことは

言わずもがなのこと。

さらに大切なのは、

「声なき声を聴くこと」


自分が尊敬する人に

共通しているのは、

「声なき声を聴く」

能力を有している

ということ。


つまりそれは、

「生きていれば

何と言うだろう」

と問うことができ、

「生きていればきっと

こう言うだろう」

ということを実際に

行動できるということ。


自分の大切な人は

早くにご尊父を亡くした。

でも、ことあるごとに

「何と言うだろう」

かと問い、

「こう言うだろう」

という内容のことを

自身の規範としている。


さらに、

ことあるごとに

「お父さん、ありがとう」

と感謝の気持ちを捧げる。


いつもコメント頂く、

suwanaganoさんや

月のひかりさんも

早くにご尊父を

亡くされましたが、

ブログを拝見すると、

ご尊父への想いや

ご尊父への感謝の気持ち

がしばしば綴られている。


これこそまさに、

服喪儀礼なのでしょう。

それを本当に為すことが

できる人の言葉は

とても深い。


なぜなら、

「声なき声を聴く」

ことができる人

なのだから。


今の自分にとっては、

「心の声にもっと

耳を傾けなさい!」

そう言われている

ような気がする。

「声を聴くこと」

の大切さを

今あらためて想う。

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必ず誰かが見守っている

最近、とても忙しい…

(゚ー゚;


でも、そんな時、

一服の清涼剤のように

心穏やかになる私信を

頂きました。


それはある人を

その人の傍から見守り、

その人の成長に思わず

目頭が熱くなったと

いうお話。

(゚▽゚*)


素敵なお話です。

急に寒くなった気候に、

心が温まるお話。

(o^-^o)


「傍にいることしか

できない」と書かれて

いましたが、それで

イイのだと思います。

( ̄▽ ̄)


傍にいてもらえることで、

いかに元気づけられるか!

見守られているだけで、

いかに勇気づけられるか!

それはその人が実感

していることでしょう。

(* ̄ー ̄*)


もし、あなたが

傍にいてもらえる人が

いないと感じたり、

見守ってもらえる人が

いないと感じているのなら、

それはきっと誤解です。

あなたは見守られている!

気づいていないだけ。


それでも、

そう思うのなら、

あなたが傍にいる

人になればイイ。

あなたが見守る

人になればイイ。


自分が欲しいと

思うものは、まず、

あなたが与えなければ

得るコトが出来ない

ものだから…


ところで、

その私信の最後に、

このブログに影響を受けた

と書いてあり、

自分に対する感謝の

気持ちまでつづって

ありました。


それは、

自分にとって何よりの

よろこびです。


それとともに、これも

誰かが必ず見ている!

見守ってくれている!

という証でしょう。


自分を見つめ直し、

誰かを見守るために

始めたブログ。


それが、また別の

誰かを励まし、

こうしてよろこびの

おすそ分けを頂く。

とても素敵なコトですね。

o(*^▽^*)o


お礼を言うのは

こちらの方です。

感謝をするのは

こちらの方です。

ありがとうございます!


急に寒くなりました。

ブログに触れて頂いた

みなさま、どうぞ

ご自愛くださいね。

どうか風邪など

召しませぬように…

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努力はいつか報われる

昨日の夜、

不意に思った。

「頑張っていることは

いつか必ず報われる」と。


そして、

まったく偶然に

同じような言葉に触れた。

「がんばれ。

世の中、努力していれば

いつか報われるよ。

ほんとだよ。

見ている人は

見ているから。」

(@内田樹)


多くの人は、

成果が得られない時、

「頑張りが足りない」

「努力が足りない」

と感じてしまう。


たしかに、

足りないこともある

かもしれない。


でもね、

頑張っている人、

努力をしている人に

これ以上頑張る、

あるいは、

これ以上努力する

ということは

容易いことではない。

(努力してなきゃ

話は別だけど…)


最近よく思う。

成果が得られるのは、

さらに頑張ることや、

さらに努力することよりも、

頑張り続けること、

努力し続けること、

このことの方が大切だと。


そして、

その頑張りや努力は、

いつかきっと報われる。

そう信じることも大切。


Dreams Come Trueの曲に、

『何度でも』という歌がある。


♪何度でも何度でも何度でも


 立ち上がり呼ぶよ


 きみの名前


 声が涸れるまで



 悔しくて苦しくて


 がんばっても


 どうしようもない時も



 きみを思い出すよ


 10000回だめで


 へとへとになっても


 10001回目は


 何か 変わるかもしれない



 落ち込んでやる気も


 もう底ついて


 がんばれない時も


 きみを思い出すよ


 10000回だめで


 かっこ悪くても


 10001回目は


 何か 変わるかもしれない



 どうしてわからないんだ?


 伝わらないんだ?


 喘ぎ嘆きながら


 自分と戦ってみるよ


 10000回だめで


 望みなくなっても


 10001回目は 来る



 きみを呼ぶ声


 力にしていくよ 何度も


 明日がその10001回目


 かもしれない…♪


(Lyrics by Miwa Yoshida)


1回目にいると、

「1万回も!?」

と思ってしまう。


またある人は、

「1万回も伝えなきゃ

伝わらないのだろうか?」

と思う人もある。


でもね、

1万1回目は来る!

必ず来る!!

1万1回目には、

何か変わるかもしれない!


大切なのは

1万回であろうと、

100万回であろうと、

頑張り続けること、

努力し続けること。


自分も確信を持って

そう言えます。

o(*^▽^*)o


ところで、

ドリカムの『何度でも』

歌詞の続きをご存じですか?

(゚▽゚*)


♪10001回目は 来る

 10001回目は 来る

 10001回目は 来る


 絶対10001回目は

 あなたにも

 あなたにも

 あなたにも

 みんなにも

 やってくる♪

(「生きてゆくのです」

Coupling曲

Dreams Come True

Concert Tour 2009

"ドます?"スペシャル

メドレー3より)

(o^-^o)

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公的な私、私的な私

内田樹さんのブログ記事

「公共性と痩我慢

について」

を読んで、

一昨日、立ち話ながら

話してたことのうち、

自分が伝えたかった

ことが書かれている!

と感じた箇所に瞠目した。


それは…

高橋源一郎さんが

語ったことを内田さんが

採録された箇所にあった。


「ぼくは、いつも

『公と私』はどう区別

すればいいのだろうか、

とよく思う。

『公共』というような

言葉を使う時にも、

自分で意味がわかって

いるんだろうかと思う。

そのことを考えてみたい。


この問題について、

おそらくもっとも優れた

ヒントになる一節が、

カントの『啓蒙とは何か』

という、短いパンフレットの

中にある。それは

『理性の公的な利用と

私的な利用』という

部分で、カントは

こんな風に書いている。


『どこでも自由は

制約されている。

しかし啓蒙を妨げて

いるのは…

どのような制約だろうか。

そしてどのような

制約であれば、

啓蒙を妨げることなく、

むしろ促進することが

できるのだろうか。


この問いにはこう

答えよう。人間の理性の

公的な利用はつねに

自由でなければならない。

理性の公的な利用だけが、

人間に啓蒙をもたらす

ことができるのである。


これに対して

理性の私的な利用は

きわめて厳しく制約

されることもあるが、

これを制約しても

啓蒙の進展がとくに

妨げられるわけではない。


(中略)


では『私的』ではない

考えなどあるのだろうか。

なにかを考える時、

『枠組み』は必要では

ないだろうか。

カントの真骨頂は

ここからだ。


『公的』であるとは、

『枠組み』などなく

考えることだ。

そして、

一つだけ『公的』である

『枠組み』が存在

している。それは

『人間』であることだ。


『啓蒙とは何か』の

冒頭にはこう書いてある。

『啓蒙とは何か。

それは、人間がみずから

招いた未成年の状態から

抜けでることだ。

未成年の状態とは、

他人の指示を仰がなければ

自分の理性を使うこと

ができないということ

である。


人間が未成年の状態に

あるのは、理性がないか

ではなく他人の指示を

仰がないと、自分の

理性を使う決意も勇気も

もてないからなのだ。


だから、

人間はみずからの責任に

おいて、未成年の状態に

とどまっている

ことになる。』


『自分の頭で』

『いかなる枠組み

からも自由に』考える

ことの反対に

『他人の指示を仰ぐ』

ことがある。


カントは別の箇所で

『考えるという面倒な

仕事は、他人が

引き受けてくれる』

とも書いた。


それは、

既成の『枠組み』に

従って考えることだ。

それが

『公的』と『私的』との

違いなのである。」


他人に命令される

ことなく、自分の意志で

『枠組み』にとらわれず

自由に理性を行使する。

つまり、考え行動する。


自ら考え行動せず、

『未成年の状態』に

ありながら、

「なるようになる」と

思っているコトを

自分は「甘い!」

と言った。


私事であっても、

『枠組み』にとらわれず

自由に理性を行使する。

それは立派に「公的」

な私であるはず。


それは、

社会を構成する

一市民としての

行動なのだから。


人を笑顔にする。

笑顔でいるコトも、

確実に「公的」な私

の立派な役目なのだと

思いますよ!

o(*^▽^*)o

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1年前の私、1年後のあなた

朝晩はすっかり

秋らしい気候。

(o^-^o)


あれからちょうど1年。

1年経って、今のような

状況になるとは、まさか

予想もしなかった。

(^-^;


1年は長いようで短い。

そんな短い時間の先に

ある状態を、確信を持って

こうである!と正確に

言える人はいない。

もし言えるのであれば、

「確信」ではなく、

「過信」かもしれない…

というくらい、先のことは

誰もわからない。

(≧m≦)


でもね、

1年後の自分について

確信を持って言える

コトが1つある。

それは…


こうありたい!

こうしていたい!

と想うこと。

(*^ー゚)b


これだけは確信を

持って言える。


こうありたい!

と想いながら、

時間を大切に過ごす。

そうすれば、

こうありたい!

と願う自分に近づく

ことができ、結果、

こうである!

という自分になる。

ホントですよ。

(*^-^*)


そのためには、

如何に強く

こうありたい!と

念じ続けることが

できるか。


さらに、

こうでなければ

ならない!と

いうのではなく、

こうありたい!

と想うこと。


その方が、

その先の自分の姿を

強くイメージできる。

それに、楽しいでしょ。

( ̄▽ ̄)


「イイよねっ、

イメージできる

自分があって…」

なんていう人がいる。

目標が見出せない…

イメージできない…

と言う人もいる。


でもね、

誰にだって

道はあるのです。

(* ̄ー ̄*)


アランは、

『幸福論』の中で、

こう述べています。


「要するに、

なんとしても出発する

ことが必要である。

どこへ行くかを

考えるのは、まず

出発してからの

ことである。


いったいだれが、

行く道を選んでから

出発したか。

僕はそれを尋ねる。

誰も選択はしなかった。


なぜなら、

われわれはみんな、

最初は子どもであるから。

誰も選択はしなかった。

みんな、

まず行動したのだ。」

(@アラン『幸福論』)


まず行動すること。

こうありたい!と

強く願う自分を

イメージしながら。

たとえ、イメージ

できなくても、

行動していくうちに、

なりたかった自分は

こうだったんだぁ!と

事後的にわかるんですよ。

(*゚▽゚)ノ


大丈夫!

誰にだってできるはず。

1年前の私は、

1年後のあなた

なのだから。

o(*^▽^*)o


こうありたい!

と願いながら

楽しく行動する

あなたの姿は

とても素敵ですよ!!

(゚▽゚*)

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ピンクリボンデーの夜に

10月は

乳がん撲滅のための

ピンクリボン月間。

そして、

10月1日は

ピンクリボンデー。


日本各地のランドマークが

ピンク色にライトアップ

された。


昨日の夜、

出張で着いた名古屋でも…

(゚▽゚*)


尾張名古屋のお城が

ピンク色にライトアップ

されていた。


女性のみなさま。

特にアラフォー以降の

女性のみなさま。

2年に1度の

マンモグラフィーを

確実に受診して下さいね。


年間5万人の日本人女性が

乳がんに罹患すると

推定されている現状。


大切なあなたと、

あなたを大切に想う

大切な人のためにも。

o(*^▽^*)o



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