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声を聴くこと

内田樹さんのTwitterに

とても気になる記事が

書かれていた。


そして偶然にも

昨日(10月28日)のブログに

「ロングバージョン」として

掲載されていた。


それは、

『声を聴くことについて』


その一部を採録します。


「神の召命は微かな波動

として、まわりの誰にも

聞こえない、私だけが

聞き届けることのできる

シグナルとして

私たちに触れる。


だから、

それに注意を傾けなさい。

深く息をして、

眼を閉じて、

心を静めて、

『存在しないもの』からの

メッセージを聴きなさい。


これは服喪儀礼と

同じものである。


どの社会集団でも、

近親者には服喪儀礼として

歌舞音曲を控え、

他出や社交を控え、

美味を飽食し

泥酔することを

控えよと命じている。


これは『家の中に

重病人がいるとき』の

心遣いと同じものである。


壁越しに、

病人のわずかな咳払いや、

うめき声が聞こえたときに、

その微かなシグナルを

聞き逃さないように、

私たちは病室の近くに

じっとして、大きな声を

上げることを控え、

センサーの感度を高く

保つように工夫をする。


死者をあたかも家内の

重病人のように扱うこと。

それが服喪儀礼である。


死者はもう存在しない。

けれども、

死者は『存在するとは

別の仕方で』

生きる者たちに

『触れる』


『死者が私のこの

ふるまいを見たら、

どう思うだろう』

という問いが

ことあるごとに回帰して、

そこにいない死者の判断を

おのれの行動の規矩と

する人にとって、死者は

『存在しないという

仕方で存在する』。


それどころかしばしば

死者は『生きているとき

よりもさらに生きている』。


死者をそのように

遇すること、

それが服喪儀礼である。


この『存在しないもの、

遠来のものからの声に

耳を傾けることができる』

能力が人間の人間性を

基礎づけている。


『論語』の陽貨篇には

『服喪三年』についての

宰予と孔子の対話が

録されている。


弟子の宰予が孔子に

服喪期間が長すぎる

ことに不満を言った。

『三年の服喪期間と

いうのは長すぎませんか。

そんなに公務を休んで

いたのでは、社会制度は

維持できません。』


孔子は『じゃあ、

好きにしなさい』と

宰予を帰してから、

かたわらの弟子に

こう言った。

『予の不仁なるや。

子生まれて三年、然る後に

父母の懐を免がる。

夫れ三年の喪は

天下の通喪なり。

予や三年の愛其の

父母に有るか。』


あいつも薄情なやつだね。

子どもというのは

生まれてから三年は

父母に扶養されて育つ。

それからようやく親の手を

離れて生き始める。


だから服喪三年ということ

になっているのだ。

あの男は父母に対してその

三年分の愛を惜しむのか。


子どもの養育と服喪が

『対』になっている

という発想はまことに

孔子の洞見である。


赤ちゃんのとき、

私たちは親が自分に

何を語りかけているのか、

自分に何を求めているのか、

さっぱりわからない。


でも、その意味の

わからない言葉が

しだいに分節言語として

理解されてくるころに、

親による24時間ケア体制

から離脱して、

一人で遊び始める。


『父母からの、

聞こえなかった言葉が

しだいに聞こえるように

なる』というのが

子どもの成長過程である。

服喪儀礼はその逆の

行程を進む。


『聞こえていた言葉が

しだいにか細くなって

ゆき、やがて聞こえ

なくなる』まで耳を

澄まし続けるという

のが服喪儀礼である。


子どもが父母の声を

聴き取るまでに

3年かかったなら、

父母の声が聞こえなく

なるまで3年かける

というのは理に

かなっている。


人間の世界はそのように

『いまだ到来しないもの』

と『すでに立ち去った

もの』の間の中空に

構築されている。


服喪儀礼とは、

死者に対して礼を尽くす

ことが目的ではない。


死者に対して礼を尽くす

ことを通じて、

『存在しないもの』と

かかわる術を学び、

人間性を基礎づける

ことが目的なのである。」

(@内田樹)


自分にとっては、

なんて絶妙なタイミング

なんだろう…

自分が伝えたいコト、

自分が為すべきコト、

それらをあらためて

わかりやすい言葉で

伝えて頂いたような…


まさしく、

服喪儀礼とは

葬儀や法要に出て、

霊前に頭を垂れる

ことばかりを

言うのではない!


かといって、

葬儀や法要はカタチ

ばかりのモノだからと

侮っていいワケはない。

カタチすらも全うに

受け容れるコトが

できない人に何が

できるのだろう…


さらに、

カタチだけで満足

すればよいという

ワケでもない。


大切なのは、

「声を聴くこと」

生きている人の

声を聴くことは

言わずもがなのこと。

さらに大切なのは、

「声なき声を聴くこと」


自分が尊敬する人に

共通しているのは、

「声なき声を聴く」

能力を有している

ということ。


つまりそれは、

「生きていれば

何と言うだろう」

と問うことができ、

「生きていればきっと

こう言うだろう」

ということを実際に

行動できるということ。


自分の大切な人は

早くにご尊父を亡くした。

でも、ことあるごとに

「何と言うだろう」

かと問い、

「こう言うだろう」

という内容のことを

自身の規範としている。


さらに、

ことあるごとに

「お父さん、ありがとう」

と感謝の気持ちを捧げる。


いつもコメント頂く、

suwanaganoさんや

月のひかりさんも

早くにご尊父を

亡くされましたが、

ブログを拝見すると、

ご尊父への想いや

ご尊父への感謝の気持ち

がしばしば綴られている。


これこそまさに、

服喪儀礼なのでしょう。

それを本当に為すことが

できる人の言葉は

とても深い。


なぜなら、

「声なき声を聴く」

ことができる人

なのだから。


今の自分にとっては、

「心の声にもっと

耳を傾けなさい!」

そう言われている

ような気がする。

「声を聴くこと」

の大切さを

今あらためて想う。

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コメント

アルバムの整理をしています。 家族史 30年分です。

        可也の結果を目の当たりにします。

   其の時 共に生きた人たちの人生も含め

 成長 学歴 職歴    結婚 離婚 死別 

   其の時から 全てが始まっていたのだと 

   部分が 完全に繋がる 幾つかの過程に驚きます。

       背景に全ての因が写り込む  無意識

   一目瞭然 微かな声を聞くよりも 定かです。


       原因が解る  過去のデータ です。

                 戎と戒

  
  ひささん いつもありがとうございます。

      気楽に書かせて頂いています。
     
      気楽にお答えくださいね。

   
 

投稿: 一光 | 2010年10月29日 (金) 21時12分

一光さん、いつもコメントありがとうございます!

「ひささん いつもありがとうございます。
 気楽に書かせて頂いています。
 気楽にお答えくださいね。」
こちらこそ、いつもありがとうございます。
素敵なコメントに素直にお答えしています。
これからもよろしくお願いします!

いつもいつも素敵なコメント
本当にありがとうございます!!

投稿: ひさ | 2010年11月 3日 (水) 08時25分

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