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2010年11月

風邪は万病のもと

ようやく風邪が治った!

という感覚になった昨日。

(* ̄ー ̄*)


昨年は、

新型インフルエンザの

流行に終始していた

1年だったけれど、

今年は昨年とは違う

様相を呈している。


その1つが、

今年のインフルエンザの

流行は、A香港型が

主であるというコト。


昨年、

新型インフルエンザが

流行した際に、これまでの

季節性インフルエンザが

淘汰されたかのように、

従来のインフルエンザは

ほとんど流行しなかった。


それに対して、

現在のところ、

今年の流行の7割が

A香港型ウイルス。


やっぱり、ウイルスは

どこかに潜んでいる。


そういえば!

今年はノロウイルスも

猛威を振るっている。


昨年は、この10年で

最も発生が少なかった

ノロウイルスによる

感染性胃腸炎。


今年は現在のところ、

昨年の3倍以上の

発症件数が報告されて

いて、過去10年で

最も発症の多かった

2006年に迫る勢い。


どうして、昨年は

ノロウイルスによる

感染性胃腸炎の発症が

少なかったのだろう…

(?_?)


これは自分の勝手な

解釈なのだけれど、

新型インフルエンザの

流行と無縁では

ないのだと思う。


新型インフルエンザが

パンデミックとなった

昨年は、うがいや

手洗いに気をつける意識が

とても高まっていたし、

人が集まる施設の至る所に

手指消毒薬が置かれていた。


さらに、

新型インフルエンザが

流行したために、

人が集まるイベントの

開催が中止となったり、

年末年始の忘年会や

新年会の開催が

見送られたケースも

多いと聞く。


ウイルス感染は、

人が集まるところで

拡大する。


ひとりひとりの

ウイルスに対する

留意と行動が、

その拡大を最小限に

抑えることは事実。


ウイルスの拡大を

防ぐのは国の仕事!

だなんて言わず、

ひとりひとりの仕事

でもあるのだと

考えることが大切

なのだとあらためて

思います。


「風邪は万病のもと」

くれぐれも気をつけ

ましょうねっ!

(*゚▽゚)ノ

ってすでに風邪を

ひいてしまった自分が

言うのは説得力が

ありませんが…

(*´v゚*)ゞ


そうそう!

「風邪は万病のもと」

で思い出したことが…


風邪をひいた状態、

特に鼻がつまって

いる状態の時に

航空機に乗ると、

「航空性中耳炎」

になりやすいですから、

これまたくれぐれも

気をつけて下さいね。


航空性中耳炎?

聞き慣れない言葉

かもしれませんね。

離着陸時に耳が詰まった

感じがしたり、耳が

痛くなったりする

アレです。


風邪のひきやすい冬、

年末年始の帰省や旅行で

航空機を利用すると、

発症する人が増え、

場合によっては重症化

することもあります。


「どうして?」

それは、風邪をひいて

鼻が詰まってしまうと、

耳の鼓膜の内側つまり、

中耳と鼻・咽頭をつなぐ

「耳管」も詰まって

しまうから。


いわゆる「耳抜き」が

できにくくなってしまい、

気圧の変化に対応

しづらくなってしまう

からなのです。


特に、

航空機の着陸に際して、

低い気圧から一気に

変化する際、

その気圧の変化に

対応しづらい時に

起こしやすいのです。


よく、

着陸態勢に入った時、

小さいお子さんが

泣いているのは、

この「航空性中耳炎」

が主な理由だと

考えられています。

赤ちゃんは「耳抜き」

ができないですからね。


アメをなめたり、

つばをゴクンと

飲み込んだり、

対処法はさまざま

ありますが、

重症化しない最も

重要なことは、

風邪をひかないこと。


やはり、

「風邪は万病のもと」

なんですね…


ブログに触れて頂いた

みなさま。

くれぐれもお風邪など

召しませぬように…

そして、素敵な冬の

ひとときをどうぞ

お過ごし下さいね!

o(*^▽^*)o

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「天下無敵」について、ふたたび

風邪をひいて

昨日一日横になって

寝ている間は、

久しぶりに多くの本を

読む機会でもあった。

(* ̄ー ̄*)


そのうちの1冊に、

内田樹さんの

『日本辺境論』を

選び、再読した。


あらためて読んでみて、

今この状態にある

「自分」に必要な

大切な部分について、

ここに書き留めて

おきたいと思います。


それは、

「天下無敵」について。

以前このブログでも

紹介しました。

「天下無敵の…」


その際、採録しなかった

部分も含めて、

今まさに大切な部分を

ふたたび今ここに

採録します。


「無傷の、完璧な状態

にある私を『標準的な私』

と措定し、私がそうで

ないこと(つまり

『いまあるような私』

であること)を

『敵による否定的な干渉』

の結果として説明する

ような因果形式、

それが『敵』を作り出す

ロジックです。


『敵』はこのロジック

から生み出される。

『敵』とは実体ではなく、

『原因』で『結果』を

説明しようとする

このロジックそのもの

のことである、と言って

もよいかと思います。


私が現在このような状態

(歯が痛かったり、

腹回りがだぶついて

きたり、血圧が上がったり

している状態)にある

ことを『かくあるべき状態

からの逸脱』ととらえず、

『まあ“こんなもの”

でしょう』と涼しく

受け容れる。

それもまた

『敵を作らない』マインド

の一つのかたちです。


老いや病や痛みを

『私』の外部にあって

『私』を攻撃するものと

とらえず、『私』の一部

であり、つねに『私』と

ともに生きるものと考える。


純粋状態の、

ベスト・コンディションの

『私』がもともと存在

していて、それが

『敵』の侵入や関与や

妨害によって機能不全に

陥っている。

そう考える人の世界は

『敵』で満たされます。


そういう人にとっては、

やがてすれ違う人も、

触れるものも、

吸う空気も、

食べるものも、

すべてが潜在的な

『敵』になる。


『敵』の介入のせいで、

『私』の可動域が制限され、

活動の選択肢が限定された

状態として『私』の現状を

説明する人は、つねに

『敵』に囲まれています。


そして、そのとき『私』

にとっての理想状態とは、

この世界に『私』以外に

誰もいないこと。

絶対的孤独のうちに

引きこもることを

意味することになる。


(中略)


『敵を作らない』という

ことを今は『可動域』とか

『動線の選択』という

空間的な用語法で

説明しましたけれど、

『敵を作らない』ことの

もっとも重要な目標は

実は時間意識の変成

なのです。」

(内田樹 『日本辺境論』)


どのような状態に

「自分」があっても、

その「自分」を受け容れ、

「自分」と共に生きる。


それは、「自分」を

「敵」にすることなく

生き延びるということ

だけではなく、

「自分以外」も「敵」

と思わなくなることで、

「無敵」の状態になる。

そして、その状態で

共生していく。


「~のせいでできない」

と考えるのか、

「~のおかげで、

このように考えること

ができるようになった」

と考えるのかは、

同じ事象を違う観点で

考えることなのに、

その差は大きく変わる。


「できない」と思う

意識の積み重ねと、

「できる」と想う

意識の積み重ねが、

時間的変化とともに、

その人自身の「構え」

を大きく変えていく。

間違いなく変えていく。


病を得て、

横になっていた

「おかげ」で、

大切なことを

あらためて心に刻む

機会に触れた。


おかげさまで、

体調の方は快方に

向かっているようです。

(o^-^o)


ブログに触れて頂いた

みなさまも、

お身体にはくれぐれも

ご留意下さいね。

o(*^▽^*)o

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想い出は薬

ついにダウン…

( ̄ー ̄)


ここ1ヵ月近く、

休みなく働いて、

さらにごく最近の激務?

(に近い仕事量)で、

昨年の今頃と同様、

熱を出してしまった…

(。>0<。)


熱でぼぉーっと

しながらも、

夢の中では

素敵な想い出が

走馬燈のように

映し出された。

特に、

自分の大切な人との

素敵な想い出が。


それは、昨日

たまたま触れた言葉

「想い出は薬」

に触発されたから

だろう、きっと。


夢の中に訪れてくれた

数々の素敵な想い出。

まるで、薬のように

夢の中での自分を

温かく包んでくれた。

(* ̄ー ̄*)


素敵な想い出は、

心を穏やかにさせてくれる。


とはいえ、

素敵な想い出は、

意図して作り上げようにも

なかなか作り上げられない。


でも、

素敵な想い出は、

さらに素敵に

育てることができる。


悲しいこと、

辛いこと、

そんな思いの時も、

優しく癒してくれる

素敵な想い出。


みなさんにも

きっとあるはず。

薬のように癒してくれる

とっても素敵な想い出が。

(゚▽゚*)


自分が言うのも何ですが…

(゚ー゚;

体調の優れない方へ

くれぐれもお大事に。

どうか素敵な想い出で

癒されますように…

今はゆっくり身体を

お休め下さいね。

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「こうあるべき」に居着かないこと

昨日の外来で、

患者さんの劇的な

変化にこちらが驚く。


一時こちらの予想を

はるかに超えて、

かなりひどい症状を

訴えていたのだけれど…


この劇的な変化は、

治療が奏功したと

いうよりはむしろ、

患者さんの意識の

変化が最も寄与した

のだと思う。


それは、端的に言うと、

「病気である自分」に

居着くことを止めた、

ということ。


これまでは、

症状が改善しても

「これは一時的な

『変化』であって、

またもとの症状が

出るかもしれない」

といった思いが

患者さんを苛んでいた。


この患者さんが、

あるとき気づいたという。

それは、

「こうあるべき」自分から

「こうありたい」自分に

変えたいと思ったのだと。


「病気である自分」は、

「病気であること」に

軸足があり、何事にも、

「こうあるべき」である

という思いがあった。


それは、

症状を悪化させない

という意味においては、

慎重に対処する「構え」

になるけれど、

症状が改善しても、

「病気である自分」が

本来の自分であると

いう立ち位置にいるか

のような振る舞いに

なってしまっていた。


ところが、

病気であっても、

「こうありたい」自分を

イメージすることが

できるようになった

瞬間から、

立ち位置も、振る舞いも

劇的に変化して、症状の

改善を受け入れられる

ようになってきたのだと。


このエッセンスは、

病気に限ったことでは

ないのだと思う。


「こうあるべき」自分

というのは、時として、

自分にかけた呪いのように、

自分を苛むことがある。


「こうあるべき」というのは、

「こうでなきゃいけない」

という強い思いを

立ち上げやすくする。

そして、それはえてして、

自分を苦しめることになる。

「これもいけない」

「あれもいけない」

という思いに。

そんな悲観的な思い

から、楽観的な結果は

生まれにくい。


その一方で、

「こうありたい」自分は、

同じ自分でありながら、

「こうでなきゃいけない」

と思う時よりも寛容になる。


だって、ベクトルは

「こうありたい!」と

イメージされた自分に

向いているのだから。


「こうあるべき」自分

というのは、常に、

現在の自分の姿が

厳しく評定される。

「こうあるべき」であり、

「こうでなきゃいけない」

のだから…


でも、

「こうありたい!」

と思う気持ちは、

未来の自分の姿に

視点が向いているから、

「こうありたい!」

と思う現在の自分の姿は

その過程と自覚していて、

現在の自分の評価が

寛容になる。


そしてさらに、

「こうしたい!」

あるいは、

「こうありたい!」

と想う気持ちは、

人を能動的にする。

「こうあるべき」

という思いが、

自分自身を拘束する

のとは正反対に。


「こうあるべき」自分に

居着くことから逸脱すること。

それは、「跳躍」と言える

かもしれない。

決して「逃避」ではなく。


生きていく上で、

いろいろ辛いこと、

自分の思いとは

違うこともあるでしょう。


でもね、

たとえ状況が変わら

なくても、視点を変えれば

何かが変わる。

すくなくとも、

「こうあるべき」自分に

居着かなくなる。


「こうありたい!」

自分をイメージすること。

それは、何かが大きく変わる

きっかけになるはず。

o(*^▽^*)o


飛び石連休ですね。

どうぞ楽しく穏やかな

時間をお過ごし下さいね。

ブログに触れて頂いた

みなさまにとって、

実り多い秋のひととき

でありますように…

(* ̄ー ̄*)

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もう…

とても残念だけれど、

今の正直な気持ちは、

「言い訳」を聞くこと

にうんざりしている。

さらには、

げんなりもしている。


「言い訳」を言っている

とされている側から

すれば、「言い訳」など

言っているつもりはなく、

「正当な理由」を

述べているに過ぎない。


でもね、

聞く側からすれば、

正当であるか否かよりも、

理由が妥当か否かよりも、

「言い訳」としか

聞こえない以上は、

真摯に耳を傾けて

聴く気にはなれない。


さらにそのうえ、

「言い訳」を聞いて

「なるほど!」

などと納得するなんて

とても困難なこと。


「じゃあ、

どうすればいいの?!」

などと青筋立てて

言われても困る…

とにかく、

うんざりしちゃったん

だから仕方ない…


「どうして?」

う~ん…

自分の話型では到底

理解してもらえない

だろうから、

以下にわかりやすい

文章を採録して、

「同意を得る」こと

にしましょう。


「55歳になったので

態度をいっそう悪くしよう

と決意したところに朝日

新聞の集金が来たので、

『アサヒは明日から

入れなくていいよ』

と宣言する。


販売店のお兄ちゃんが

『え、どうしてですか?』

と困惑するので、

『君が悪いのではない。

アサヒの紙面がどうも

気持ちが悪くて、

朝新聞を取りに行くのが

苦痛になってきたのだよ』

と事情を説明する

(これではわからない

だろうが)。


わが家は生まれたときから

朝日新聞で、私自身も

ずっと朝日新聞一筋の

ヘビー・リーダーなの

であるが、その私が

『もう読みたく

なくなった』という

のだから、ここ数年の

朝日の紙面の質的低下は

かなり顕著なものと

言わねばならぬであろう。


コンテンツが悪いと

申し上げているのではない。

『語り口』が気に入らない

のである。

『イデオロギッシュ』

なのである。

『イデオロギッシュ』

といっても、

偏向しているとか

左傾しているとか、

そのようなレベル

のことを申し上げて

いるのではない。


問題はコンテンツ

じゃないんだから。

内容ではなく、

そのコンテンツの

『差し出し方』が

私の疳に障る、

と申し上げて

いるのである。


どのような問題についても

『正解』があり、

それを読者諸君は

知らぬであろうが、

『朝日』は知っている

という話型に対する

膨満感が限度を

超えたのである。


もちろん、どのような

ジャーナリズムもこの話型

を採用しているし、

『あなたが知らないことを

私は知っている』という

プレゼンテーションの仕方

がビジネスでも教育でも

医療でもきわめて効果的

なものであることを

私は知らないわけ

ではない。しかし、

ものには限度がある。」

(@内田樹

『態度の悪いバースデイ』)


つまりはそういうこと。

内容がどうのこうの

というのではなく、

「差し出し方」が

我慢の限界を

超えちゃった…


だから、もう…

いい加減「言い訳」

はやめませんか!?

と言いたい気持ちで

いっぱいな状態。

それがこちらの気持ち。


「じゃあ、百歩譲って

気持ちを理解したとして

どうすればいいの?」


ん?

これまた自分の話型では

理解してもらえない

だろうから、

これについても

わかりやすい文章を

採録します。


「『集団の合意形成のため

に地道に努力すること』は

『正しい目的地に

たどりつくこと』よりも

優先順位が高いと

私は考えている。


そちらのほうが『正しい』

と言っているわけではない

(『正しい目的地に

たどりつくこと』の方が

正しいに決まっている)。

そうではなくて、

『集団の合意形成のため

に地道に努力すること』

ができる人間は、

『正しい目的地』に

たどりつけなくても、

けっこうハッピーな

人生を送ることができる

と思っているのである。


場合によっては

『正しい目的地』に

たどりついた人間よりも

幸福かもしれないと

思っているのである。」

(@内田樹

『オピニオン・リーダー

なんかになりたくない』)


つまりはそういうこと。

「合意形成」しませんか?

ということが言いたいだけ。


今回、「合意形成」

することに努力した?

いくら「正しい理由」

だとしても、

事後的に語られて、

さらには、

「合意形成」よりも

優先順位が高いとすれば、

「合意形成」には至らない。


「正しい」か否かも

大切だけれど、

「こちらが正しい!」

とのたまっても、

残念ながら、

「言い訳」と聞こえる

うちは「合意形成」

はとても難しい。


「どうしてそういう

結果になったか」

というプロセスを

のたまうことを

「言い訳」という言葉

を使っているだけ。


「合意形成のために

地道に努力する」

ことこそが、

大切なんだと思う。


ところで、

聞いてる側が一方的に

正しくて、相手が

「言い訳」を言っている

に過ぎない!と思って

いるだけなんだなんて

誤解しないでほしい。

こちらが「正しい」

とは全く思ってない。

ホントに。


そんなことを言ってる

こと自体が、

「合意形成」には

つながりにくいこと

なのだと重々理解

しているのだから。


「どうしたい?」

という問いには、

「こうしたい!」

と答える方が、

「最適解」に近い。

以前そう述べた。


今回の場合は、

「合意形成したい!」

というのが「最適解」

に近いんじゃないかな?


あっ、そうそう!

さらなる「理解」のために

この文章も採録します。


「反省というのは

『反省される対象』と

『反省する主体』のあいだに

適切な距離とそれなりの

気づかいがないと

成立しない。


(中略)


若いときの自己批判は

きわめて思弁的であるが、

年を取ってからの

自己批判は実践的である。


若いときは『できそうも

ないこと』を理想に掲げて

現状を罵るが、

年を取ってからは

『できること』しか

反省しない。


『できないこと』を

『やっていない』と

反省してもまるで

時間の無駄である。


だったら、

いろいろある問題点のうち、

『なんとかなりそうな

もの』と『手が着けられ

ないもの』を仕分けして、

リソースを『なんとか

なりそうなもの』に

優先的に配分する。

それが老人の知恵である。」

(@内田樹

『『オピニオン・リーダー

なんかになりたくない』)


なんとかなりそうなもの

からまずやってみる。

「まず隗より始めよ」

って故事にあるように。

o(*^▽^*)o

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先のことは誰もわからない、けれど…

いろいろご相談を

持ちかけられる

ことの多い自分。


多いのはやはり

医療の相談ですね。


でも、実は

これが一番答えづらい

ことでもあるのです。


セカンドオピニオンで

あればまだしも、

自分の知る医学知識と、

より専門的な知識との

ギャップ、さらには、

情報不足の状態で

どう思うかを問われた

時の答えは、どう答え

てよいかわからない

ことの方が多いのです。


でも、

お訊き頂いた以上、

お答えしたいと

思うのです。


例えば…

ご自身の肉親が手術を

受けられる場合など。

親族として

どうすればよいか、

どうしてあげられるか

などのご質問を

よく受けます。

たとえ専門外で

あったとしても…


この場合、

大切にして頂きたい

と思うことは、

当事者の気持ちや心情。

まずは、患者さん

ご本人の気持ち。


こうした場合、

えてしてご本人よりも

親族の方が先んじて

いろいろ複雑になる

場合もあるのです。


お気持ちはよく

わかりますよ。

でもね、

ご本人の気持ちとは

うらはらにならない

ようにご配慮いただき

たいなぁと思うのです。


そして、

その患者さんを診る

もう一人の当事者、

医療者側。


目の前の患者さんに、

最善を尽くそうと

日々頑張っている。

その当事者とも

よくご相談頂くことが

大切ですね。


先のことは

誰もわかりません。

その判断が良かったのか

どうかは事後的にしか

わからないものです。


ですから、

現時点で最善を尽くす

ことより他にすべき

ことがありません。


相談された方の最善は、

当事者とよくご相談

されることだと思います。

この場合、

患者さんご本人と

その主治医。


そして、

患者さんご本人が

納得されている

のであれば、

それをしっかり

見守って頂く

ことだと思います。


自分がお伝えできる

「最善」は以上です。


患者さんのご快癒を

心よりお祈りします。

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できることからやってみよう!

一昨日、

こんなコトを伝えた。

「何かをする時、

できない!と考える

よりも、できることを

考えよう。」

「『どうしたい?』

と訊かれたら、

『こうしたい!』

と答えるのが

たぶん最適解」だと。


そして昨日、

こんなブログ記事を見た。


「『学ぶ』という行為は

次のような単純な

センテンスに還元される。

『私には知らないこと、

できないことがあります』

『教えてください』

『お願いします』

これだけ。

これが『学び』の

マジックワードである。

これが言えない人間は

永遠に学び始める

ことができない。


(中略)


仮に私が何かを

知らなかったり、

できなかったり

するとしても、それは

私の責任ではなく、

私が『私らしく』自己実現

することを阻害している

『社会の責任』に帰される。


一見すると整合的な言説

である(『一見すると

整合的』でなければ、

これほど広くに普及する

はずがないのだから、

当然だが)。


けれども、

現在の自分の社会的な

不調や地位の低さや

年収の少なさをすべて

『私が私らしく生きる

ことを阻んでいる社会の

責任』に帰するという

のは、幼児の論理である。


たしかに幼児は免責される。

けれども、

免責されることの代償に、

幼児には幼児のポジション

しか与えられない。

『私はさしあたり

‘私らしさ’を達成しえて

いないために社会的には

無能とみなされている。

だが、この状態について

‘幼児である私’には

一切責任がなく、

それゆえこの状態を

改善する義務もない。

誰か早急に何とか

するように』というような

ことを呟いている人間に

社会的資源を優先的に

配分し、高い地位や

豊かな文化資本を

提供するようなシステム

は残念ながらこの世には

存在しない。


『大人として遇して

欲しければ大人になれ』

というのが人類社会の

ルールである。」

(@内田樹

『階層化する社会

について』


「どうしたい?」

と訊かれたら、

「こうしたい!」

と答えること。


それは、

大人でも子どもでも

同じこと。


大人として振る舞いたい

と思い、大人として

遇して欲しいと思うなら、

大人として振る舞う

ようにすることが大切。


そのためには「学び」

「どうすればよいか

わからない!」

というのであれば、

次に、「知りたい!」

と思い、「教えて欲しい!」

とお願いすればいい。

それが、

「学び」の構え。


そういう基本的な

「構え」について、

話したつもりです。

(o^-^o)


大丈夫。

できることから

やってみよう!


尋ねること、

お願いすることも、

できることなんだから。

「すべて自分で

やりなさい!」

なんて言ってる

ワケじゃないんだから。


できることから

やってみよう!

o(*^▽^*)o

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「贈与」について、ふたたび

天はいつも、

絶妙のタイミングで

自分にささやいてくれる。

(゚▽゚*)


今自分の伝えたい言葉が、

まさしくそこに

書かれていた。


以下にその一部を

採録します。


「『ひとりでは生き

られないのも芸のうち』

が文春文庫になる。

鹿島茂先生がステキな

(ほんとうにステキな)

解説を書いてくれた。


私も文庫版のために

『あとがき』を

書き足した。そのなかに

『贈与』について

書いたので、その部分だけ

ここに抜き書きして

おくことにする。


『贈与』というのは

『コンテンツ』の問題

ではなく、『構え』の問題

だということ、

程度の問題ではなく、

原理の問題だということ。

それについて書いた。


この本の最後に収められた

『あなたなしでは生きて

ゆけない』という短文は

『連帯を通じて自立する』

ための逆説的な理路

について書いています。


自立は『その人なしでは

生きてゆけない人』の数を

増やすことによって

達成される。

僕はそう書きました。


『その人なしでは

生きてゆけない人』

に対して、

僕たちは必ずや

『あなたにはこれからも

ずっとずっと健康で

幸福でいてもらいたい』

と祈ります。


その予祝の言葉に対しては

必ず同じく祝福の言葉が

返される。予祝に対しては

予祝を以て応じ

なければならない。


『おはようございます』

に対しては

『おはようございます』

と返礼することが

義務づけられている

(この義務を怠るものには

きびしい社会的制裁が

待ち受けています)。


それと同じように、

『あなたなしでは

生きてゆくことが

できません。

あなたの末永い健康と

幸福を私は切に願います』

という予祝の言葉に

対しても、それと同文の

言葉を返すことが

人類学的には義務づけ

られています。


もちろん、そのような

つよい予祝の言葉を贈る

ことのできる相手は

『おはようございます』

という挨拶を向けることの

できる相手よりもはるかに

限定されています。

でも、ゲームのルールは

変わりません。


(中略)


私たちは自分が欲するもの

を他人にまず贈ることに

よってしか手に入れる

ことができない。

それが人間が人間的で

あるためのルールです。


(中略)


祝福の言葉を得たいと

望むなら、まず僕の方から

『あなたにはいつまでも

幸福でいてもらいたい』

という言葉を贈ら

なければならない。


まず贈与するところから

すべては始まる。

というようなことを

書くと、『贈与するも

何も、僕は赤貧であって、

他人に与えるものなんか、

何もありません。

それよりまず僕に

何かください』と口を

尖らせて言う人が出て

くるかも知れません。


でも、残念ながら、

『そういうこと』を

言う人は、その言葉に

よって自分自身に呪いを

かけていることに

気づいていない。


そういう人はそのあと

仮に赤貧から脱することが

できたとしても、

『私は十分に豊かに

なったので、これから

贈与をすることにしよう』

という転換点を見出す

ことができません。


いつまでも

『貧しい』ままです。

そこそこの生活が

できるようになっても、

『世の中にはオレより

豊かなやつがいっぱい

いるじゃないか

(ビル・ゲイツとか)。

贈与なんて、そいつらが

やればいいんだよ。

オレには家のローンとか

いろいろあるんだから…』

そういうふうにしか

言えなくなってしまう。


それが『まず僕に

与えてください』

と言ってしまった

『自分に対する呪い』

の効果なのです。他人に

贈与しない人は誰からも

贈与されることがない。

その人は自分が必要と

するものをすべて

自分で手に入れ

なければならない。


(中略)


すべての人がそれぞれの

現場で、ちょっとずつ

オーバーアチーブする。

それによって、

社会システム全体の質が

少しだけ向上して、

僕たちは生活の全局面で

(電車が時刻表通りに来る

というようなかたちで)

そのささやかな成果を

享受することができる。


そういう意味では、

僕たちはすでに

贈与と返礼のサイクルの

うちに巻き込まれて

いるのです。それが

順調に機能している限り、

僕たちは人間的な生活を

送ることができている。


そんなのは『当たり前』

のことであって、

自分は誰からも贈与なんか

受け取ったことはない、

だから誰にも贈与しない、

オーバーアチーブなんて

冗談じゃない、

というふうに考える人は、

つまり『受け取るだけで、

次にパスを出さない人』

は贈与と返礼のサイクル

からしだいに押し出されて、

周縁の『パスの通らない

エリア』に位置づけられる

ことになります。


もちろんそこでも

基本的な社会的サービスは

受けられます。

でも、その人宛ての、

パーソナルな贈り物は

もう誰からも届かない。


(中略)


僕たちの時代がしだいに

貧しくなっているのは、

システムの不調や

資源の枯渇ゆえではなく、

僕たちひとりひとりが

『よきパッサー』である

努力を怠ってきたからでは

ないかと僕は考えています。


僕たちは人間の社会は

どこでも贈与と返礼の

サイクルの上に構築されて

いるという原理的なことを

忘れかけていた。

だから、それをもう一度

思い出す必要がある。

僕はそう思います。」

(@内田樹

自立と予祝について

『内田樹の研究室』)


自分にはこの理路が

自分の心身にとても

しっくりきます。


それは、内田樹さんが

語っているからという

わけではなく、

自分がこうありたい!

と想う気持ちを

理路整然とわかりやすく

自分たちに語って

くれているからなのです。


この理路に触れると、

自分はある話を

思い出します。

そして、

自分がこうありたい!

と想う気持ちは

小さい頃に聞いた

その話で育まれました。


それは自分が小学生の頃、

叔父が自分に話して

くれました。


「今日も本を買い込んで

帰ってきた大学生が、

自身の下宿の部屋で

わずかばかりの

釣り銭を積み上げ、

このわずかのお金で

今日の空腹をどう

乗り切ろうかと

考えていた。


するとそこに、

下宿の大家さんの孫

である小学生の男の子が

部屋にやってきた。

しばらくして、

その子がお腹空いた!

と大学生に空腹を訴えた。


大学生は釣り銭を

握り締めたかと思うと、

よし!そばを食べよう!

と言って小学生を

そば屋に連れて行った。

そして大学生の有り金の

ほとんどすべてが

小学生が食べたそばに

消えていった。


家に帰った小学生から

話を聞いた大家さんは、

この学生さんは将来

大人物になるぞ!

ひとかどの人物に

なるにちがいない!!

と言ったそうだ。


事実、この大学生は

日本を代表する論客として

世間に広く知られる

有名大学の教授になり、

叔父が師と仰ぐ

ひとかどの人物となった。


そしてその小学生もまた、

かつて自分にそばを

ご馳走してくれた人の

門下生となり、師と

仰ぐようになった。」


これは実話だけれど、

この話にはさまざまな

エッセンスが折り込まれて

いるのだと思う。


まず1つめのエッセンス。

それは、「贈与」の話。

貧しくてお金がないから

できない!とは考えない。

できることを考える。

それが人の温かみであり、

人が人である所以だろう。


自分もお腹が空いている、

でも、目の前に自分と

同じ空腹を抱えている

小さい子どもがいる。

この子どもにまずは

何とかしてやりたい!

そういう構えが

この人物には常にあった。


そしてこの話の

もう1つのエッセンス。

それは、

「見る人は見ている」。


「この学生さんは将来

大人物になるぞ!」

と言った大家さんの洞見。


「贈与」は、

「できない」から

やらないのではなく、

「できる」ことを

考える構えが大切。


その上で、

「贈与」と「返礼」の

サイクルをまわすこと。


叔父の話には

続きがある。


「そばをご馳走して

もらった孫の祖父である

大家さんは、その後、

その大学生を

ことあるごとに

自宅に呼び寄せ、

食事をご馳走した。


その大学生は、

浮いた食費を

また多くの本の購入

費用に充当することが

できるようになった。


その後、この人物が

教授就任パーティで、

『現在の自分があるのは

多くの方々のご支援が

あったからです。

貧乏学生であった自分が

多くの本を購入する

ことができたのも、

下宿の大家さんの

おかげに他なりません』

と語ったのだという。」


まさしく佳話!

(* ̄ー ̄*)


贈与と返礼のサイクル。

社会が住みやすく、

より豊かになるための

大切な構えだと

今あらためて思う。

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幸福な人

仕事が終わって、

すこし疲れて

帰って来たけれど、

本を読む時間と

元気は何とか確保。

(o^-^o)


最近も相変わらず

忙しいけれど、

締切の迫った仕事を

片っ端から片付けた

後だから、切迫感がなく、

気持ちにゆとりのある

忙しさ?


それが証拠に、

本を読む時間すら確保

できなかったほどの

忙しい時期とは違って、

昨日はしっかり本を読む

時間が確保できていた。

( ̄▽ ̄)


昨日一気に読んだのは、

内田樹さんの

『街場のマンガ論』


マンガに関するブログ記事

などのコンピレーション

なのでスラスラと読める。


さまざまに

目に止まるところが

あったのだけれど、

その中で、

今の自分が最も強く

共感した箇所を

以下に採録します。


「幸福な人とは、

快楽とは『いつか終わる』

ものだということを

知っていて、だからこそ、

『終わり』までの

すべての瞬間をていねいに

生きる人のことだ。


だから

『終わりですよ』と

言われたら、

『あ、そうですか。

はいはい』というふうに

気楽なリアクションが

できるのが

『幸福な人』である。


『終わり』を告げられても

じたばたと『やだやだ、

もっと生きて、

もっと快楽を

窮め尽くしたい』と

騒ぎ立てる人は、

生き続けても結局

幸福になることの

できない人である。


幸福な人は、

自分が幸福なだけでなく、

他人を幸福にする。

だから、私はみんなに

幸福になって欲しいし、

幸福になる努力を

して欲しいと思う。」

(@内田樹)


他人を幸福にすること。

この大切さを、

今まさにあらためて思う。


昨日、

自分の患者さんが

こう言った。

「私はとても幸せです」

と。


病を得て、人は

幸せに思えるだろうか?

いや、そうは思えない。


でも、

人は病にある時も、

幸せと感じる

ことはできる。


その患者さんも、

「私を支えてくれる人の

存在を知ることができ、

私のために何とかしよう

としてくれる人の

有り難みを感じることが

できた今、とても幸せです」

と話してくれた。


この患者さんにとって、

同じ病を持つ人からの

温かい言葉や気遣いが

強い心の支えとなっている。


幸福だと感じること。

それは、

「…でなければ

幸福ではない」

と思うことの対局に

あるものだと思う。


そしてさらに、

自分ひとりが幸福を

享受するのではなく、

他人を幸福にする

ことが出来る人を

「幸福な人」だと

呼ぶのだと思う。


与えられた時間の中で、

最大限自分の使命を

果たすこと。

これも、人を幸福に

する上で大切なこと。

o(*^▽^*)o

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共通点と相違点、共感と気づき

すこし前(10月31日)の

茂木健一郎さんの

Twitter記事に

気になるツイートが

書かれていた。


「人間の脳は、

貪欲だから、

この人といると

自分が成長できる

という人を好きになる。

相手が自分にないものを

持っているというのは、

好きになる上での

重要なポイントである。


相異点ばかりでは

好きにならない。

共感できる点がなければ、

一緒にいて心地良くない。

共感できるところと、

未知の部分が入り

混じった、偶有的な存在が

理想の相手である。


相性において、

共通点と差異点が共存

するという『偶有性』が

大切であるということに

気付くと、なぜ、

同じものが好きなのに

退屈な人がいるのか

が理解できる。

共通しているだけでは、

自分の鏡を見ている

ようなもので、

それ以上の成長の余地が

ないのである。」

(@茂木健一郎)


人は自分にないものを

持つ人に憧れる。

それが好意を持つきっかけ

になることもある。


でも、

自分にないものは

時として共感できない

ものになることもある。


一方、

人は共感できる部分を

多く持っている人と

安心して共に過ごす

ことができる。


でも、

自分と同じ部分は

時としてイライラしたり、

退屈に思うこともある。

だってそれは、

自分を映す鏡のように

見えるのだから。


相違点と共通点、

そのどちらかをもとに

相性を考えるのは、

自ずとバランスが悪い。


相違点と共通点の

バランスが良い人との

相性が理想!


それは、茂木さんが

指摘するように、

自分が成長する気に

させてくれるから。


共感は大切。

同時に、

自分にないものを

持つ人が持つものに

気づくコトも大切。


相手に相違点と共通点を

求めるだけでなく、

自分自身も共感と気づき

というバランス感覚を

持つコトの方が大切。

それが自分を成長

させる種となる!


「自分が変われば、

世界が変わる」

(@養老孟司)

のだから。

o(*^▽^*)o

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